日本におけるオオカミの再導入について 

オオカミの再導入について、論点の整理。

 

現在、日本ではイノシシやシカによる獣害が大きな問題となっている。イノシシやシカは、大きな農業被害を出し、過疎化・高齢化が進む中山間地域を追い込んでいる。またシカは本来の適正生息数を大きく超過し、山の植生を変えてしまうほど、生態系にインパクトを与えている。

 

これほど被害が増えた理由の一つは、動物の数が増えたことだ。

増えた原因については様々なことが言われており、特に狩猟者の高齢化・減少が、影響しているのではないかと考えられている。

 

そんな中、オオカミを日本に復活させるべきだ、という声がチラホラと聴かれるようになった。明治時代、日本の生態系への頂点に君臨していた日本オオカミは、その過重な捕獲や、生息地の悪化などにより、絶滅した。

 

オオカミを再導入に賛成の人は、「オオカミがいなくなったため、今のシカの増えすぎる現状を招いてしまった」と考え、元々日本にいた種とは違うが、ユーラシア大陸から「タイリクオオカミ」を導入するべきだというのだ。

 

確かに、アメリカのイエローストーン国立公園や、ヨーロッパのある地域など、オオカミを再導入した場所は存在する。かといって、それが日本でも適用できるかは、不明で、多くの問題が存在しているのが現状だ。

 

それで、今回は、オオカミ再導入に関する文献、また、イエローストーン国立公園に関するインターネットの記事などをもとに、日本におけるオオカミの再導入について、論点を整理し、考察を行う。

なお、参考にした本は、日本オオカミ協会が書いた、以下の本だ。

 

「オオカミが日本を救う! 生態系での役割と復活の可能性の必要性」(2014年)

丸山直樹編

 

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まず、オオカミ再導入について、賛成派と反対派の意見を見ていく。

 

 

~導入「反対派」の意見~

 

家畜や人への被害など、人間に危害が及ぶ可能性がある

 

日本に定着できるかが疑問

 

本当にシカの個体数減少効果があるのか疑問

シカを獲らずに、他の動物を襲う可能性

 オオカミは、群れ(パック)の縄張りの面積が広大。あまり増えない可能性がある。

 トップダウン効果より、ボトムアッム効果の方が、影響が高い可能性。

 

予測できない生態系への影響を及ぼす可能性がある。

 生態系は複雑。導入してどんな影響が出るかは、未知数。

 

 

 

~再導入「賛成派」の意見~

オオカミは、生態系の中のキーストーン種

シカの適切な密度を保つためには、頂点捕食者であるオオカミは絶対必要。

 

狩猟では捕獲圧を上げることができない

猟師の高齢化、また人口減少が進むため、狩猟者は今以上に減少する。また、ずっとこの高い捕獲圧を維持するのには、莫大なコストがかかる。

 

他の国の成功体験がある

 アメリカのイエローストーン国立公園や、ドイツ ラウジッシ地域などでは、オオカミを再導入し、オオカミは定着、また増加していた大型草食獣の増加を抑制している。

 

オオカミは、もともと日本にいた動物

 沖縄へのマングースの導入等に代表される外来種問題とは、根本的に違う。

 日本の生態系に順応し、増えすぎているシカを適性に戻し、本来の健全な生態系に

 導いてくれるはずである。

 

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以下では、上で取り上げたオオカミ再導入の論点となる部分について、反対派・賛成派それぞれの主張を整理した。

ここでは、特に重要だと考えられる、4つの論点を挙げた。

 

 

1、家畜や人への被害について

 

 

反対意見:家畜や人への被害など、人間に危害が及ぶ可能性がある。

欧米では、家畜被害が発生している。農家がそれを受容するかが疑問。また、カナダではオオカミによる人身事故件数が、年平均0.56件ある。

 

 

 

賛成意見:人が襲われる可能性は少なく、また十分餌がある状態ならば、家畜を襲うことはほとんどなく、損失は限られている。

オオカミは、人への警戒心が強く、人との遭遇を避けようとしている。

ヨーロッパやアメリカでは、全く人身害が報告されていない。(ヨーロッパでは、過去50年で9件。そのうち5件は狂犬病にかかったオオカミ)

 

オオカミが明治期に家畜を襲ったのは、獲物となるシカやイノシシが減少したから。

明治は森林伐採等により、山が荒廃しオオカミの餌資源が減少したため、家畜を襲うようになった。現在はシカ等が十分生息するので、家畜を襲う可能性は少ない。

 

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2、導入したオオカミが日本に定着できるかどうか

 

 

反対意見:日本に定着できるかは疑問

 オオカミは、広範囲の森林を必要とする。大陸とは異なる日本の地形に、オオカミが定着できるかは分からない。

 

また、日本におけるオオカミの絶滅は、森林の荒廃など、その生息環境が失われたことが大きい。オオカミだけを連れてきても、それを支える生息環境が整っていないと、定着は難しい。

 

 

 

 

賛成意見:オオカミが定着するのは可能。

 

本の森林面積からすれば、十分オオカミの定着は可能。

例えば、北海道には少なくとも約50,000平方kmのオオカミ生息適地が存在し、5001000頭を収容することが可能である。

 

また、オオカミが絶滅したのは、明治時代の政権による政策的な影響が大きく、奥山や里山が荒廃したためではない。

 

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3、オオカミの導入は、シカ個体数調整に効果があるのか

 

 

反対意見:本当にシカの個体数減少効果があるのか疑問

 

マングースが、ハブを取らなかったように、オオカミも捕獲に労力がかかるシカよりも、ウサギなどの小動物をより優先してより捕食する可能性がある。

 

 

オオカミは、家族群で、広大な縄張りを持つため、シカの数が多くても、オオカミの生息密度は低いレベルで、頭打ちなる。

(パックは、10万ヘクタール以上になることも。最小で、6000ヘクタール

また緩衝地帯が必要。オオカミが生息する地域の面積の2040%にもなると報告)

 

 

トップダウン効果より、ボトムアッム効果の方が影響高い可能性がある。つまりシカの個体数への影響は、捕食者によるトップダウンはあまり関わっていないかも知れない。

→シカの増加率より、オオカミの増加率の方が低いため、抑えられない。

 

 

イエローストーン公園で、エルク等が減少には、気候や狩猟など、様々な要因が関係していて、オオカミによる天敵効果とは一概には言えない。また、イエローストーン公園は、四国の半分程度の大きさで、それより遥かに大きい本州に導入したときに、効果がでくるのかは分からない。

 

 

 

 

賛成意見:シカの個体数を調整するのに効果はある。

 

コスト・ベネフィット論から考えたときに、ウサギなどの小動物が、シカよりも楽な獲物になるとは考えられない。個体数も多いため、シカを優先して捕食するはず。

 

 

イエローストーンでは、エルクの生息数が、1995年:17000頭、2006年:7000頭、2010年:5000頭、と大幅に減少。オオカミ導入による効果だと考えられる。

 

 

また、「リスク効果」があるため、オオカミが直接捕食する以上の抑制効果がある。

 

エルクの出産率は、妊娠ホルモンが高いと多くなり、妊娠ホルモンは、オオカミが少ないほど高くなる。つまり、オオカミは、エルクの妊婦率に負の影響を与える。

また、エルクはオオカミを避けるために、見通しが効いてオオカミに発見されやすい草原のそうな地域から、見通しが悪い森林に生活の場を移した。草原のような開放的な環境では、栄養度の高い餌を食べることができたが、それが制限されることで、利用可能な資源が減少した。(スコット・クリール)

 

オオカミの生息地では、非生息地と比べると、警戒レベルが2~3倍に上がっていた。警戒していることは、すなわちストレスがかかっているということ。(J.W・ラウンダー)

 

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 4、オオカミが生態系に予測できない影響を与える可能性

 

  

反対意見:予測できない生態系への影響を及ぼす可能性がある。

 

いわば、外来種と導入するわけなので、希少種への影響がある可能性がある。

また、オオカミの分布・個体数がどのように変化していくか、予想を立てるのが難しい。生態系に対し、考えてもいなかった深刻なインパクトを与える可能性もある。

 

 

 

賛成意見:生態系への影響は少ない。また観察・管理ができる。

 

 希少種は、数が少ないが故に、捕食の対象にはなりにくく、希少種への影響はそれほどない。もともとオオカミは日本にいたわけなので、外来種を入れるよりは、格段に影響は少ない。

また、オオカミもしっかり人の手で観察・管理していけば、予期していなかったリスクに合う可能性も少ない。

 

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このように、それぞれ意見が分かれています。

反対派、賛成派、それぞれに言い分がありますが、みなさんはどのように考えるでしょうか。

以上の点を踏まえて、次の記事では、各主張の信憑性も踏まえて、より深くこのテーマについて考えていきたいと思います。

 

 

 

 

学部と違う大学院に入ってからすぐやること。

4月ももうすぐ半ばに差し掛かりますね。新しい環境での生活は、色々とやらなければいけないことがあって、早く感じます。

僕は4月から、大学院(修士)での生活が始まりました。大学院に進学するには、大学に入るのと同じように試験があります。しかし大学の時のようにセンター試験など形式ばった試験があるわけではなく、それぞれの大学院が各自の試験形式を取っており、多くの場合、その内容はそれほど難しいものではありません。今は大学院に行く人が少ないことも関係しているかも知れません。

そんな大学院進学ですが、進学先によって2種類に分けることができます。一つ目は、学部時代に所属していた研究室にそのまま入るものです。つまり、同じ大学で研究を続けることになります。こちらのほうが、人数的には多いと思います。

もう一つは、学部時代とは違う大学の研究室に入るものです。なぜ研究室を変わるかというと、例えば、大学生のうちに、自分がやりたいと思ったことを専門にしている先生を他大学で発見した、今の大学よりスキルアップできるから、などの理由です。もちろん高校生の受験の際には、自分のやりたい研究ができそうかどうかを吟味して、大学選びを行うものです。しかし、大学に入って色々な経験を積んだり、実際に研究をしていく中で、自分の興味が変わることはよくあります。そんな人にとって、大学院から新しい研究に入って、好きなことを追求できるというのは良いことです。

 

しかし当然ながら、学部生の時の大学と違う大学院に入った場合、戸惑ってしまうことが良くあります。学部の時と同じ研究室で、大学院に上がってきた人はよく知っていることでも、外部から来ると、新しいことばかりで落ち着かない、僕自身もなかなか慣れないことばかりでした。

そのため今回は、学部と違う大学院に進学した人が、やっておいたら良いことをまとめました。

 

~基本~

1、研究室のルールを知る。

2、大学の情報システムを知る。

3、奨学金の手続きをする。

 

~研究編~

4、先生の今までの研究を

5、研究テーマの話をする。大体の年間スケジュールの

6、研究室のシステムを知る。

 

 

~基本~

 

1、大学・研究室のルールを知る。

大学には各自のルールがあります。学部生から在籍している人にとってはもう当たり前のルールかも知れませんが、当然外部から入った人にとっては知らないことばかりなのでなの、しっかりと把握しておく必要があります。

ルールというのは、大学院・研究室によって、それぞれ個別にあると思います。例えば、僕の所属しているところでは、研究室に入ることのできる時間が決められていて、時間外は入ることができなくなります。また学外に調査に行く際には、きちんと届け出をすることが義務付けられ、大学の腕章をつける必要があります。学部生のときはそういった所が緩かったことが多いと思いますが、院生からは、研究者の一員として、責任ある行動をとることが求められているのだと思います。

また、理系の研究室の場合、研究に機械などの専門器具を使うことが多いと思います。その使い方や処理なども研究室によって異なることが多いので、しっかりと覚える必要があります。特に、大学で研究していたことから、全く違う分野に来た人は一から覚えなくてはならないため、大変です。

 

2、大学の情報システムを知る。

多くの場合、各自の大学にはそれぞれ、独自の情報システムがあり、そこから大学の情報を得たり、授業の履修登録を行ったりします。学部生の時に使ってしたシステムと違うので、その仕組みにはよく気を付けておく必要があります。奨学金関係や、履修登録についてなど、大事な情報が掲示されていたのに気が付かず、取り返しのつかないミスをしてしまうことがあるからです。特に4月、5月は重要な連絡が多く来る時期なので、情報システムの理解し、頻繁にログインして掲示などを見たほうが良いと思います。

 

3、奨学金の手続きをする。

大学院で奨学金を借りたいと思う人は、その手続きは、4月~5月初めに行われることが多いです。大学によっては、予約採用という制度がある所があり、その場合。学部の4年生に時に手続きをする必要があるので、注意です。日本学生支援機構奨学金は、学校を通して応募する必要があるため、学校からの情報を見逃さないようにする必要があります。

 

 

~研究編~

 

4、研究テーマの話をし、大体の年間スケジュールを把握する。

多くの先輩が口々に言われるのは、「大学院の2年間は長いようで、とても短い」ということです。しかも実際は2年間かけて研究を完成させればいいということではなく、学会発表をしたり、雑誌に投稿するには、かなり前から準備をしておく必要があります。また就活などもあるため、ずっと研究に時間を使うことはできないことも、頭に入れておく必要があります。そのため、「まだ時間はあるし」と悠長に構えるのではなく、具体的な研究テーマの話をすぐに始めたほうが良いです。大体のテーマは、研究室を訪問したときや大学院の入試に話し合っていると思いますが、多かれ少なかれ、全くそれと同じだという人は少ないと思います。研究テーマの話をし、この2年間どんなスケジュールでやっていくかについて話すと、段取りが立ち、とても役に立ちます。この学会で発表するには、この月までには結果を出す必要があって、それにはここまデータを取り終えて、、などのように逆算していいくことが可能になります。

 

 

5、自分と先生とで、お互いの情報を共有する。

大学院に入る前から、先生の論文などはたくさん読んできていると思います。それでも、先生の考えや持っているもの、つまり、今はどんなことをしているのか、どんなつながりがあって、どんなデータを持っているのか、など、具体的なことは知らないことが多いと思います。そういったことを改めて、先生から教えてもらえる機会があると非常に研究がしやすくなります。先生がどんな材料を持っているかを知ることで初めて学生も、「こういうことを調べたいので、あそこのデータをください」、「このデータを使って分析をしてみようと思います」など、提案ができるようになると思います。

もちろん、先生から言われるのを待つのではなくて、自分から聞きに行く姿勢が重要だなと思います。

先生のことを知るだけではなく、自分も先生に、情報を提供することが重要です。卒論ではどのようなことに取り組んできたかを伝えたり、今まで読んできた論文のリストを送ることで、先生は、その学生の立ち位置を把握することができます。研究の中で、RやQGIS,などのソフトを使うことも多いと思いますが、自分がどういったソフトを使えるのか(あるいは使えないのか)、得意なこと苦手なことは何か(○○の統計手法はやってけど、△△はやったことがない、など)、今自分は研究テーマに関し、どのように考えているか、など。

 

先生は非常に忙しいことが多いです。だから先生に積極的にアポを取り、情報共有を行うのは重要だと思いました。また先生だけではなく、先輩の研究を教えてもらうことも非常に役に立ちます。

 

 

 

すべてに共通して言えることですが、分からないこと、知らないことは、積極的に教えてもらうことが大切です。特に最初は分からないことだらけなので、遠慮せずに聞きに行き、そして慣れるまでは必死に覚えることが重要ですね。

 

最近のアウトプット

最近、アウトプットを行うことを心掛けている。

 

アウトプットの定義は難しいが、一言でいうと、自分の外側に何かを生産することだと思う。アウトプットのいいところは、知識であれ、技術であれ、定着しやすいところだ。自分の中で何かを考えることは大事だが、多くのことはそこで閉じてしまい、次第に忘れられていく。そのことを、例えば紙に書きだしたり、人に話したりすることで、自分の力としてより定着するのだ。

 

人に教えるときに、教えている人が一番身につくというのは、よく言われていることだ。これはアウトプットがいかに効果的かを示すいい例だと思う。人に教えるためには自分が、その物事を完璧に理解していないといかない。また話す中で、自分の頭が整理されていく。

 

さて、肝心なのはこのアウトプットをする方法だ。

最近は、2つの方法でアウトプットを練習している。

一つ目は、一人語りだ。これは、まるでラジオに出ているかのように、一人であるテーマについてしゃべり続けるということ。「話す」ということはとてもレベルが高いことだ。人の考えていることは、抽象的→具体的の軸で表すと、単に頭のなかで考えている状態、文字に書きだした状態、口にだすこと、の順で、具体的になっていく。

 

話してみると、物事は自分の中で整理されていないと、口に出そうというときに詰まってしまう。だから自分がいまどこまで分かって、どこから分かっていないのかが良く分かる。同時に、話すことで、論理的な主張が、頭で考えているより定着するのだ。

最近は、これを朝の通勤15分の車の中でやっている。そのとき話したいと思ったことを、とりあえず話すのだ。これは、とてもトレーニングになるし、目的地に着くまでの時間も早く感じ、一石二鳥だ。

 

 

二つ目は文章化だ。考えていることはとりあえず文章にする。その形式は、ノートでもいいし、パソコンでもいい。とにかく文章にしてみると、論点が見えてくるとともに、頭もすっきりしてくる。当たり前のことだが、文章というのは、今自分が書いていることしか、言えない。頭の中で考えているときは、同時に同じことを考えてしまったり、論点が次々に飛んでしまう。これが、頭を混乱する要因になるのだが、書いてみると、こういったことは起こらない。

テーマは何でもよい。自分の興味のあることでもいいし、書きたいこと、また人に教えたいこと、何でもいい。とにかく書いてみることが大事なのだ。それが必ず後から聞いてくる。

具体的な方法だが、自分だけの見れるように書いてもいいし、発信しても良い。

自分だけの文章として代表的なものは日記である。日記は、後から振り返られることだけではなくて、いま自分はどう感じているのかという、自分の気持ちを整理するのに、非常によい方法だ。発信する文章を書くときは、どうしても体裁を気にしてしまうから、自分の気持ちを素直に表現したいときなどは、自分だけのノートに書くほうがいいだろう。

 

発信は、例えば、Twitterでふと感じたことを書き留めてみたり、ブログに書くなどの方法がある。外部に発信する文章は、他の人に見られるんだという緊張感が、文章の精度を高めてくれる。また、反応があればモチベーションも上がるし、自分の文章に対する客観的な評価が得られるのがメリットだといえる。

 

以前は書きたいことが思いつかないときは、ブログは書かなかったが、最近は、特に書きたいことがないときも、とりあえず書き始めることにしている。そうすると不思議と文章が出てきて、途中から筆が進み始めることに気が付いた。

グダグダ考える前に、まずやってみる、というのは大切なことだと改めて気づいた。

 

他にも、本を読んだときに、簡単な感想文を書くことにしている。これには読書メーターというサービスがとても使える。これを使いだしたおかげで、本を読む機会と、感想文を投稿することが非常に増えた。おすすめしたい。

 

アウトプットは確かに最初はハードルが高そうだが、やってみると意外と簡単だ。アウトプットを続けることで、いつのまにかグンと力がついたという実感が得られるはずだ。

まあ、まずは3日坊主でもいいので、アウトプットをやってみたらどうだろうか。

 

 

 

 

新生活

実家は、よくありがたみを忘れてしまうが、心からリラックスできる、本当に幸せな環境だ。

夜ご飯を食べ、実家の階段を上がる。何気に行動だが、この生活も今日で終わりかとおもうと寂しい。コタツでこうして好きな本を読む。それがどれだけ恵まれた生活だったか、離れる直前になって初めて分かる。旅立ちのその晩、それまでの日々を振り返り、早めに布団に入った。

 

朝起きて顔を洗っているとき、少しストレスを感じた。布団にくるまっている弟が羨ましく感じる。旅立ちの日はいつもこうだ。

 

感慨にふける時間もなく、荷物を積み込み、実家を出発した。車は無機質な高速道路を延々と走る。途中、道がどっちか分からなくて一瞬びっくりするときもあったが、なんとか高速を降り、目的地に到着することができた。

 

新しい住まいとなる一軒家の場所は分かりづらい。家主さんに挨拶をし、荷物を運び入れる。ほどなくして終了。実家へと両親は帰っていった。

 

ひどくストレスを感じ、スマホをいじる。3年前、同じくこんな気持ちだった日のことを思い出す。もっとも、あの時はいじるスマホがなかったが。

 

普段はこんなにも、連絡をしないのに、話したい人、手当たり次第に近況を報告する。この春に実家を離れた友人から、すぐ返信が返ってくる。彼も一人暮らしという慣れない環境にまだ戸惑っているのだろう。1ヶ月前、東京での生活を始めた友人。その時期は頻繁に連絡が来ていた。めんどくさがって、ちゃんと返信を返してあげてなかったが、今その気持ちが分かり、もっと温かく話を聞いてあげたら良かったな、と後悔する。いつも環境が変わった日は、寂しさに押し潰されそうになり、何も手につかなくなり、無性に実家に帰りたくなる。今の気持ちを、すべての人に向けて叫びたい! -心が、宙ぶらりんの状態なのだ。

 

昼寝して、目が覚め、また眠りたいという、現実逃避の要求に襲われる。この部屋から出たくない、障子を開けなくない。外から聞こえる声に、聞こえないふりをした。でもやることは減ってはくれない。もう眠たくもない。布団から抜け出して部屋の片づけをすることにした。作業をしていると、少しずつではあるが、段々と落ち着いてきた。いったん休憩をし、ズッコケ3人組を読むことにした。

 

その日の晩は、ちょっとした歓迎会をしてくれた。料理を手伝っている時間が異様に長く感じた。いや、実際に長かったのだ。知らない人の場にいるのは、なんか落ち着かない気持ちだ。無理はせず、かといって殻に閉じこもってしまうのでもなく、合わせるように喋っていた。

 

ご飯は、野菜を中心にしたメニューだった。あまり食べたことのない味で美味しかった。もしかして飲み会になるのかなと思ったが、お酒はなかった。なくて良かったと思う。

 

部屋に戻ってからは、スマホをした。仲のいい人の喋りたい、誰かに気持ちを打ち明けたい、という意欲が強くなっているのだ。でも悲しいかな、ラインではやはり心から満足はできないのだ。シャワーを浴び、歯磨きをした。家主の声を掛けられ、アドリブの10分間スピーチをやることになった。こういうのは、まさに共同生活だからこそ、できることだなと思った。本を流すように読み、慣れない、そして寒い部屋で、フッと落ちるように寝た。

 

 

 

次の日の朝、目が覚めた時は、自分の家以外に泊まった時に起きるあの―現実が一瞬分からなく感覚に襲われた。部屋から出るのが億劫だったが、みんな寝静まっていると思い、トイレに行く。実家でやっていたように新聞を読んだあと、マップでここら辺の重要なお店を調べた。スーパー、図書館、マック、ガソリンスタンド、市役所、ボルダリング、コンビニ、、大体のものは近くにあることが分かった。もっとも近くとは、田舎でいう「近く」だが。

 

食べるものが何もなかったので、散歩してファミリーマートでご飯を買うことにした。トコトコと見慣れない道を歩く。気分がいい。おにぎりとファミチキを買って、桜の咲く道を歩く。とても風が強く、手がかじかんできた。たくさんの人が道にいて、こういう所は高知と違うなと思った。

 

帰ってから、一息ついたが、少し暇だなと思い、出かけようかと思った。でも新しいお客が来るというので、待ったほうがいいか、と考えながら、ワードに文章を打つ。お客さんは、少し遅れてやってきた。自分と共通点が多く、驚いた。色々と話し、また改めて家主の話しも聞いた。

 

気分は昨日と打って変わり、とてもポジティブな気持ちだ。知らない街をドライブするのは割合楽しい。お店がいっぱいあり、ある程度他の車が走っていることも大きいだろう。ずっと走り続けると、篠山に出てしまった。帰り道は、マップで見たお店を確認をしていくように、ナビと風景を交互に見ながら、車を走らす。友達から、「暇だー」と連絡が来て、同じ気持ちなんだな、と安心した。

 

これから、通い続けることになるかも知れないスーパーに入る。行く道、行くお店が、全部初めましてだ。こうやって親しみもない、新しい街を一つずつ知っていくんだろうな、と感じた。

どん兵衛と、スーパーで買ったおにぎりを食べ、机のパソコンに向かう。パソコンの時計は、2000を示していた。もう8時!?とも思ったが、いやまだ8時か、と思い直した。しかし、高知で一人暮らしをしているときは、いつお風呂に入っていたか、実家にいるときは、この時間何をしていたか、はっきりとは思い出せなかった。

 

部屋の外からは話し声と、サンドウィッチマンのコントの声が聞こえる。赤の他人と住んでいる、その事実に少し驚きながらも、一人でいるよりも、様々なことを体験できていることを嬉しく思った。心は段々と落ち着いてきているようだ。

 

もう少し、この生活を続けてみようと思った。

 

閉じこもっている時期が、自分を成長させる

新型肺炎ウイルスの影響で、自粛ムードの今日この頃。

 

行きたかったイベントや予定がなくなったり、お気に入りのお店がしまっているのは悲しいこと。

だが、こんな時にこそ、ゆっくりと自分の時間を楽しめるというもの。確かに、自分の中に閉じこもっているような気がして、気が滅入ることもあるかもしれない。でもこのような時期があることは、長い目線で見れば、必ず有意義なものになっている。

 

最近は、気になった本を読んだり、考え事をしたりしている。

 

あまりに忙しすぎると、本を読むことができない。本を読むには、ある程度のまとまった時間と、心の余裕がいると思うからだ。本のいいところは、家にいても自分の世界が広がるところだ。もちろん、普段の生活の中でも、新しい発見はある。でも、それ以上に本は、自分が体験したことがない世界、考えたことにない思考に触れされてくれる。

 

気候変動運動家のグレタさんの本を読んだ。彼女の生い立ちや考えていることを知ると、ニュースで見た彼女の印象とは異なることが分かった。メディアを通しての彼女の姿は、ある意味表面的なものだったのだろう。

アメリカで開かれた国際会議に出席するとき、飛行機を利用するのを拒み、ヨットで大西洋を横断したことが話題となった。「やりすぎ」「パフォーマンス」などと多くの批判を受けていたが、本を読むと、この行動は、世間の目を引きたいがための、行動ではなくて、グレタさんの信念に基づいていたものであることが分かった。

 

本を読むことで、その人が何を考えているかが伝わってくる。

メディアやSNSだけだと、グレタさんに対して、他の人がどう思っているか、どういう評価を受けているか、という面ばかりがクローズアップされ、当の本人の考えていることが伝わらず、一番大切な部分がおざなりにされることがある。

 

本を読むのは、著者との一対一での対話だ。著者の考えが分かるだけではなく、本を読むのには深い思考を必要とする。それは、物事を自分の頭で考えることにつながる。

 

 

 

また、今のように外出が禁じられ、普段やっていることから解放されると、考える時間も多くなる。

 

この思案する時期があるのは、とてもいいと思う。その時は閉鎖されているような気分に陥るが、あるとき、この考えたことが活かされ、パッと外に向かって開くのだと思う。

岡本太郎は、「人間は強烈に中に閉じこもるときと、外に開くときがある」といった。自分の中に閉じこもる時期があるからこそ、その後、自分の外側に、社会に向かって、飛び出していけるというのだ。

 

万有引力、流率法(将来、微分積分学といわれるようになるもの)、プリズムの発見、など物理学、数学、光学の3つの領域で驚くべき業績を上げたニュートン

彼がケンブリッジ大学にいるとき、ちょうどヨーロッパでペストが大流行した。そのため大学は閉鎖され、ニュートンは地元の田舎に帰らないといけなくなった。しかしそのことで、じっくりと思案に耽ることができ、さっき上げた3つの偉大な発見をすることができた。ニュートンの三大業績はすべてこの休暇中の18ヶ月に成し遂げられたものであり、「驚異の諸年」「創造的休暇」と呼ばれている。

腰を据えて考えることができるということは、新しい思考を作り出す土壌となるのかも知れない。

 

 

 

非日常的な生活を余儀なくされているいま。退屈だと感じることもあるだろう。

でも、こんな時だからこそ、普通ではなかなかできないことー本を読んだり、じっくり物事を考えること をするのがいいだろう。

 

逆にラッキー!思うくらいが気も晴れていい。たとえコロナにかからないためといって、家の中で退屈だ、暇だ、と思いながら生活をしてても、それは精神上よくないし、もったいない。

 

人生の中で、こんなにも家でじっとしていることはそうそうない。家の中でできる生活を楽しむこと、それが結果的にコロナの拡大を防ぐ、一つのポイントとなるかも知れない。

別れの日

今日で、この場所に住むのも最後だ。振り返ると、とても長く、濃い時間だったと感じる。これからの人生、どんな場所で暮らしていくかはまだ分からないが、この場所で過ごせたことは、おそらく忘れられない記憶としてあり続けるだろう。

 

今日、良かったことが3つある。

一つ目は、お世話になった方に最後の挨拶ができたこと。

最初あったときは、話すのに緊張し、いい関係を築けるだろうか、と不安でしかなかった。ゆっくりではあるが、相手のことが分かってきて、大袈裟化も知れないが、信頼関係を築くことができた。顔を合わせたのは短い時間であったが、こうして笑ってお別れを言えたこと、また自分が一歩踏み出してことで、この機会が生まれたことに対し、嬉しく思った。

 

二つ目は、後輩と会えたこと。この1年、後輩と共に過ごして時間の長かった。また会いましょう、と言われて、素直に嬉しかった。

 

三つ目は、良い言葉に出会えたことだ。

「自分のことを、自分が評価してあげなくて、誰がするの?」

 

動画を見ていて、ハッと気づかされた。今まで考えていたことが結びつき、希望の光が見えた気がした。

自分のやっていることに意味を持たせられるのは、自分しかいないのだ。

 

 

この場所で過ごす最後の夜、いつか思い出すときがあっても、その時は、たくさんある中の一つとして、曖昧な記憶として思いされるであろう。でも、この場所で過ごしたという事実に変わりはない。ここで得たもの、それを証明するのは、自分自身だ。

 

 

ありがとう、と呟いた。

春の香りはあまり好きではない。

春の香りは、とても複雑な香りだ。期待と不安が入り交じった、激動を予感させる匂いだ。激動、つまり環境が大きく変わる、「変化」があるということ。

安定と安息という人間が本来好む性質から程遠いのが、この春という時期だと思う。激動というのは大袈裟かも知れないが、例えば、今まで住み慣れていた場所を離れ、新天地で生活を始めるのは、一人の人間にとって、大きな変化だと思う。

慣れない環境は、最初不安だらけだ。

 

10日間、留守にしていた一人暮らしの家に帰宅した。久しぶりに玄関に入ると、この“家”特有のにおいがした。普段住んでいるときは感じないが、何日かぶりに帰ると、こんな匂いだったことを思い出す。そしてこの匂いは、3年前この家に引っ越してきた時の記憶を呼び起こす。始まる新生活に胸が躍るとともに、全てに不安を感じていた、あの時の記憶を。

 

自分は、環境が変わって時、その変化にすぐ対応できるほうではないと思う。新生活が始まったばかりの時は、慣れない環境に戸惑い、始まる前は「あれをしたい」「これをしたい」という風に思っていたことが、逆に自分へのプレッシャーとなり、「何もしたくない」、「考えたくない」、と思ってしまうのだ。散らかった荷物、どこにあるか分からないお店、知らない道、足りない生活用品、やらなければならない作業の山… この時間が一番つらく感じる。

 

そんな時は、焦らずに、自分を奮起させることもなく、まず体を慣らしていくことにしている。やらないといけないと思っていることから目を背け、寝転がってスマホで漫画を読む。疲れたら昼寝する。とにかく寝る。タイマーもセットせずに。深く深く夢の中に入っていき、起きたときは一瞬、いま何時か、ここはどこか、が分からなくなる。

 

外を見たらもう薄暗い。あ、もう夕方なんだと、と実感する。そうすると、いつの間にか、今の状況を受け入れることができていて、さっきまでの「心ここにあらず」状態と違い、心が居座っていることに気が付く。「一つ一つでいいんだ、片付けていくのは。」

 

 

春は、環境が大きく変わる季節だ。新しい学校、クラス替え、新しい職場、新しい街、など、慣れない環境に、確かに最初は不安でいっぱいで心が苦しくなるときもあるだろう。だから春の匂いを嗅ぐと、不安を感じた記憶が蘇り、なんというか、心が揺さぶられてしまう。でも、今感じているこの気持ちは、この場所を離れるときには、すごく懐かしく感じることになるのだと思う。いつかは、懐かしい思い出になるんだ。

そう、だから、この春の匂いは全く好きではない。嗅ぐと心が動かされるんだ。それは、楽しい、とか、不安だ、とかそんな言葉で表されるものじゃなく、ましてや快感か不快感のどっちなのかもわからず、ただ心がキュッと締め付けられる、そんな思いなんだ。