春の香りはあまり好きではない。

春の香りは、とても複雑な香りだ。期待と不安が入り交じった、激動を予感させる匂いだ。激動、つまり環境が大きく変わる、「変化」があるということ。

安定と安息という人間が本来好む性質から程遠いのが、この春という時期だと思う。激動というのは大袈裟かも知れないが、例えば、今まで住み慣れていた場所を離れ、新天地で生活を始めるのは、一人の人間にとって、大きな変化だと思う。

慣れない環境は、最初不安だらけだ。

 

10日間、留守にしていた一人暮らしの家に帰宅した。久しぶりに玄関に入ると、この“家”特有のにおいがした。普段住んでいるときは感じないが、何日かぶりに帰ると、こんな匂いだったことを思い出す。そしてこの匂いは、3年前この家に引っ越してきた時の記憶を呼び起こす。始まる新生活に胸が躍るとともに、全てに不安を感じていた、あの時の記憶を。

 

自分は、環境が変わって時、その変化にすぐ対応できるほうではないと思う。新生活が始まったばかりの時は、慣れない環境に戸惑い、始まる前は「あれをしたい」「これをしたい」という風に思っていたことが、逆に自分へのプレッシャーとなり、「何もしたくない」、「考えたくない」、と思ってしまうのだ。散らかった荷物、どこにあるか分からないお店、知らない道、足りない生活用品、やらなければならない作業の山… この時間が一番つらく感じる。

 

そんな時は、焦らずに、自分を奮起させることもなく、まず体を慣らしていくことにしている。やらないといけないと思っていることから目を背け、寝転がってスマホで漫画を読む。疲れたら昼寝する。とにかく寝る。タイマーもセットせずに。深く深く夢の中に入っていき、起きたときは一瞬、いま何時か、ここはどこか、が分からなくなる。

 

外を見たらもう薄暗い。あ、もう夕方なんだと、と実感する。そうすると、いつの間にか、今の状況を受け入れることができていて、さっきまでの「心ここにあらず」状態と違い、心が居座っていることに気が付く。「一つ一つでいいんだ、片付けていくのは。」

 

 

春は、環境が大きく変わる季節だ。新しい学校、クラス替え、新しい職場、新しい街、など、慣れない環境に、確かに最初は不安でいっぱいで心が苦しくなるときもあるだろう。だから春の匂いを嗅ぐと、不安を感じた記憶が蘇り、なんというか、心が揺さぶられてしまう。でも、今感じているこの気持ちは、この場所を離れるときには、すごく懐かしく感じることになるのだと思う。いつかは、懐かしい思い出になるんだ。

そう、だから、この春の匂いは全く好きではない。嗅ぐと心が動かされるんだ。それは、楽しい、とか、不安だ、とかそんな言葉で表されるものじゃなく、ましてや快感か不快感のどっちなのかもわからず、ただ心がキュッと締め付けられる、そんな思いなんだ。