自分が1匹の犬の命を奪ってしまったということ

あの犬の顔がいまだに忘れられない。

傷だらけの身体。鋭い顔つき。敵意をむき出しにして、あくまでも戦う姿勢を崩さない。

とびらが閉まり、もう暴れても意味がないと悟ったのであろうか。今まで荒れ狂っていたその犬が、ふっと大人しくなった。少し離れたところから、おそるおそる顔を覗いてみた。

ハッとした。

今まで「怒り」と「怯え」しか見て取れなかったこの犬が、とても悲しい目をしていたから。

たぶん、もうこの山に帰ってくることは出来ない事が分かっていたのだ。

「あの犬は、野犬だったんだ、いつかは駆除される運命的だった」
「もし、罠にかからなかったら、今もあの山を走っていたんだろうな」

自分を正当化する言葉を作りだしてはそれを打ち消し、まだあの山を走ってる姿を想像した。

◇◇◇

僕は学生時代、狩猟をやっていた。

僕が罠を掛けていた山は、一言でいうなら「荒れた山」だった。そんなに高くはない山で、山の北側は開発され、ズラッと団地が連なっていた。

その反対側の南側のふもとには、集落が広がっていた。その集落の田んぼは美しく、田植えの後には集落全体が輝いて見えた。しかし、その集落は例に漏れず高齢化が進んでおり、昔は活用されてであろうその山は、ここ何十年間か放置されていた。そのため、山は藪で茂り、竹が無造作に生え、ゴミが捨てられ、広葉樹は成長し過ぎて林内を暗くしていた。そしてその山には、野犬が多いと噂だった。

そんな山のふもとのその集落で、イノシシの被害は2.3年前に初めて発生した。山際のイモは全部掘り返され、収穫はできなかった。このままでは被害は拡大するんじゃないか、そんなイノシシを何とかして欲しいという声があり、その地域と関わりがあった事もあり、その山に罠を仕掛け、見回りをする日々を送った。

 

その年の冬は暖かった。けれど1月上旬、突然冷気が思い出したかのようにやってきて、ウンと冷え込んだ。厚手をしないと、朝の山には登れないような状況になった。

ある日、いつものように白い息を吐きながら、罠の見回りをするため、その急斜面を登っていた。不法投棄されたゴミを横目に、薄暗い竹藪を超えた。足元で細かな石が音を立てて落ちていった。

罠近くまで到達し、何か掛かっていないか目を凝らした。もしイノシシが掛かっていたら、近づき過ぎると危険だ。モロに突進を食らえば、怪我では済まない。

「ん?」

違和感に気づいた。獲物が掛かってはいないが、罠が弾いている。空弾き(からはじき)だ。

動物が踏んで、罠が作動はしたが、その動物が、足がワイヤーが締め付けられる前に足を抜いたため、掛からなかったのだ。タヌキやウサギなど、体重が軽い動物が踏んだ時に良く起こる。

「やれやれ、残念」

地面から露出したその罠をセットし直し、もう一度土に埋めた。この作業はなかなか手間で、動物に見破られないように自然に土を被せる必要がある。何とかセットを終え、道具を狩猟用のリュックに入れて、次の罠を見回るべく、さらに上に登っていった。

その罠から、数十メートル斜面を上がった矢先のことだった。

「ワンワンワンワン!」

 

遠くで数頭の犬の声がした。そして声はこちらに向かってくる。やばい、そう思った。

この山は野犬がウロついていて、以前気をつけるように言われていたのだ。また、この地区の住民からも野犬への苦情が寄せられていて、役場はちょうど野犬への処置を検討しているところだった。話しに聞くところ、野犬の捕獲が対策として進められている所だった。

 

1人の時に会う野犬ほど怖いものはない。犬の声を聞いた途端、戦慄が走った。しかも数は複数、囲まれるかも知れない。以前、先輩猟師と一緒に罠の見回りをした時、犬の鳴き声を聞いたら、棒などを持つように言われた。それを思い出し、すぐに近くの棒を手に取り、声のする方向を睨んだ。声は段々と近づいてきた。

 

「ワンワンワンワン」「ワンワンワンワン」

けたたましく鳴きながら走ってくる犬達が視界に 入った。自分の立っている所の大体10メートルほど下の道。犬は全部で4.5匹で、列を成して自分の目の前を通り過ぎようとしていた。通り過ぎた、と思った瞬間だった。

1匹がまるで、魔法で動きを止められたかのように、いきなり宙で止まり、その勢いのまま、もんどりかえった。地面に激しく打ち付けられたが、すぐ起き上がって走ろうとしたが、先程と同じように、そこに見えない壁があるかのように跳ね返っては、身体を地面に打ち付けた。

やっと理解した。

さっき、自分が掛けたばかりの罠に掛かったのだ。

他の犬は気付いたはすだ。しかし彼らは、決して立ち止まることも、スピードを緩めることはなく、過ぎ去っていった。罠に掛かった犬は、彼らの走る方向に向けて何度か鳴いた。しかしそれが無駄だと分かると、自分の足に掛かったワイヤーを無視して走りだそうとした。でも何度走っても、ワイヤーがピンと張った瞬間にもんどり打つだけだった。

その様子を僕はただ呆然と、でもハッキリと、まるでスローモーションの映像を見るかのように眺めていた。今起きて起きていることがにわかには信じられなかった。

その犬の声だけが、山々にこだましていた。

 

 

しばらくして、我に返ったように、僕はその場を離れ、少しだけ犬に近づいた。犬はこちらに気づいていないようだったが、斜面を下り音がして僕の存在に気がついた。そして、よりいっそう激しく暴れた。

少し離れて、バクバクしている心臓を抑えながら、改めてその犬を見た。

犬の大きさは、柴犬くらいで、あんまり大きくはない。茶色に白が混じり、何の品種かは分からなかったが、僕のイメージしている野犬とは違っていて、どこかの裕福な家庭で飼われていてもおかしくないような、そんな種類の犬だった。ただ目は凄まじく険しく、その目を見るだけでも、今までどんなに厳しい環境を切り抜けてきたかが容易に分かるほどだった。

 

 

僕はそのまま山を下り、電話をした。

まずは、70歳近いベテランの猟師に電話した。そして地域の人に電話した。それから、役場の担当者が来て、僕が全員に状況を説明した。役場の担当者は保健所と対応を話しあってきた気がする。

その犬は首輪もなかったし、間違いなく野犬だろう、と判断をされた。毛皮は艶がなく厳しい自然を生きてきた様子が感じられ、表情は野生のそれだった。

ベテラン猟師に「さすまた」のように二股に分かれている棒で首元を押さえ込もうとした。

犬は暴れまくり、動きを止めるのには時間が掛かった。僕は手伝いとして、その猟師の横についていたが、何もできなかった。その犬と猟師の間合いに入れなかったのだ。犬は恐ろしい声で吠え、近づこうとすると凄まじく早く動き回り、地面に叩きつけられても、すぐ起きてそのギラつく目てでこちらを睨んだ。周りの土が飛び散り、犬が暴れる場所には窪みができた。しばらくの間、犬が吠える音と、棒がかすれる音だけが聞こえていた。

 

犬は、その口と前と後ろ両方の足をロープで縛られ、吠える事もできなくなって、血走った眼だけを光らせ、そこに横たわっていた。

 

◇◇◇

それから後のことは、あんまり覚えていない。

あまりに多くの事がありすぎて、頭が追いつかなくなったのだ。

捕獲された犬は、役場の担当者が持ってきた檻に入れられた後、縛っていたロープが解かれた。檻に入れられた後、その犬は驚くほど静かになった。それはまるで、もう暴れてもしょうがない、と悟ったかのようだった。

 

地域の人は野犬が捕獲されて良かった、というような事を言った。猟師はあまり表情を変えず、「前にも同じような事があった…」と教えてくれた。

 

協議の上、その犬は保健所に連れて行かれることになった。担当者が運び込む予定の保健所と連絡を取っている間、少しだけその犬を見る時間があった。

僕は全く動かなくなった檻の中のその犬に、そっと近づき、初めてその顔をじっくりと見た。

顔付きは厳しく、目からは獰猛さが感じられたが、こちらを見ようともしないその目の奥には、悲しみが灯っているように感じられた。 

画像1

 

あんなに鳴いていたのが嘘のように、何も言わない。

そして、僕が再びその犬の鳴き声を聞くことはなかった。

 

 

◇◇◇

2週間ほどして、僕はその犬が運び込まれた保健所のHPを見た。そこには現在いる犬と猫の写真が、運び込まれた場所の名前付きで並べられており、僕は次々と何ページも出てくるそのリストをスクロールしながら、あの犬を探していた。

そして見たことのある犬が 「雑種・メス」 という表示とともに目に映った。

 

僕は、保健所に電話をした。

 

「2週間程前、〇〇地域で、捕獲された犬がいると思うんですが…」

保健所の方は、「確かにいます」と言った。

その地域では現在、犬の殺処分ゼロを目標としていて、原則として、殺処分はしない方向で取り組まれている事を知った。

しかし、いつまでも殺処分ゼロでいることは難しいという。増える犬猫全てを保健所で飼っていたら、人手も予算も間違いなくパンクしてしまう。

仮に、保健所で全て管理できるとして、それが犬猫達にとって、幸せなのだろうか。そんな事を考えてしまい、少し閉口していた。

保健所の方は僕が、犬を飼うつもりだと勘違いして言った。

「しかし、あの犬を飼われることを進めることはできません。野生の時期が長く、人には懐かないと思うので、引き取るのであれば、他の犬になさる事をオススメします」

まあそれはそうだろう。あの犬は、飼い主に尻尾を振って近づき、餌をおねだりするような生き方をしてきていない。

もう今更、ペットにはなれないのだ。

 

「分かりました、ありがとう」

僕はそれだけ言って、電話を切った。