イノシシを埋めるとき

今日、ウリ坊を山に埋めに行った。2日前に猟師仲間がくれたもの。1人で皮剥ぐのは非常に難しい。夜だったので暗くて良く見えなかった事もあって、全部を剥ぐのは断念。後ろ脚だけ毛を剥いで、モモ肉を取ることにした。骨盤を割らなくても関節の所で外れる。毛が肉についてしまった事が反省点。

ウリ坊なので、お肉が柔らかかった。お世話になっている農家さんかもおすそ分け。そしたら、代わりにキュウリとブロッコリー、あと黒いコンテナを6つくれた。これで解体の時、腰が痛くならないで済む。有り難い。こういう、「お裾分け」をする精神はすごく大事なんだと思う。損得とかじゃなくて、気持ちだからだ。

そういう訳でモモ肉は取れたのだが、大部分は捨ててしまう事となった。もったいないとは思う。ただ元々捨てられる予定だったという思いがあるためか、そんなに可哀想とかは思わなかった。イノシシを淡々と車に乗せ、いつも埋めている場所についた。以前埋めたイノシシが掘り返されていて、頭が違う場所に転がっていた。

思いが変わったのは、イノシシに土を被せている時だ。ほとんど体は残っている小さなイノシシの上に、土を被せていく。「あれ、この子は何で死ななくては行けなかったんだろう」という思いが頭をよぎった。そして、「自分は何をやっているんだろう」と思ってしまった。静かで薄暗いその場所で、僕はその思いを振り払うかとようにスコップを動かし続けた。完全に埋めてしまったあと、枝を探してきて、土の上に挿した。そして、膝をついて座った。

猟を始める前は、何となく可哀想と思っていた。しかし猟を始めてから、もちろんそういう気持ちを持ち続ける事が大切とは思っていたけど、純粋な感情としては感じなくなっていた。それが今日、再び可哀想という気持ちを強く感じた。

「害獣」とは一体何なのだろうか。

「捕獲」すれば解決する問題なのだろうか。