研究は自由だからこそ楽しい。いやいやの研究は進まない。

 

今週のお題「わたしの自由研究」

 

なぜ、大学生は研究しなくてはならないのか?

 

 

研究とは本来楽しいものである。自分の興味あることをトコトン調べる。他のヒトが興味を持とうが持たまいが関係ない。まして調べて役に立つかなど蚊帳の外。自分の知的好奇心を満たす最高のものだ。

 

私はいま研究論文の製作の真っ最中である。期限は来年の1月だ。だからもう残り期間が半年もない状態で、どれだけ時間があっても研究論文を書き上げるには時間が足りなくなることから、この時期には猛然と研究を進めて行かなくてはいけないのだが、いまひとつやる気が出ない。机に向かっても他の本を見たり、もっとワクワクすることを探したりする始末。。一応研究は去年からはじめていたから、スタートダッシュは早かった。その時は研究が楽しくて仕方なかったが、今は筆が進まない。どうして、こうやる気がでないのかを考えてみた。

 

まず、自分の現在の認識を改めて確認してみた。今は研究に取り組む意志が出ず、その状態に不満を持っている。なぜ不満を持つかというと、自分は研究論文に対し、素晴らしいものを書き上げたい、書き上げるべきだという意欲・観念を持っていて、それが今の状態に対し、不安をもたらすのだと分かった。

つまり、自分の心は、立派な研究をするんだという要求を持っていることがわかる。

ではなぜこのような要求を持つのか。自分の心と対話しながら気持ちを整理してみた。

 

1,すごい論文をかけばみんなに褒められ、承認要求が満たされるという期待。

 

2,日本の大学生は、世界と比べ勉強していない、という本を読み、日本の大学は勉強しなくても卒業できるからといって、怠けてはだめだ!、また大学生時代遊んでいるだけでは将来後悔するし、勉強すべき、こんなことではだめだ!(どうダメかは説明できないが)と思い、勉強することに対して意義を感じているから。

 

3,自分の研究が、地域のの人(私は中山間地域に関わる研究をしている)に少しでも貢献できるかも知れないから。(ただし、その可能性は低いだろう。間接的・将来的には少しは助けになるかも知れないが、一つの研究がそのまま現場の利益に直結することは稀だ。したがってこの動機は少ない)

 

以上の3つ、その中でも上の2つが大きな動機として働いていることが分かった。

 

研究をやるに当たって現状やる気が出ない。自分としては素晴らしい研究をしたい。(もし、卒業するためだけでよかったら、適当な論文を書いて別に頑張る必要はない)

 

そう思う背景となっている欲望には、自分が自覚できただけで3つあった。ここで再び振り返って考えて見る必要がある。何を振り返るのか。すなわち、「どうして私は頑張って研究をしなくてはいけないのか」ということだ。

 

人は努力をするに当たって、目的がなければ頑張ることはできない。受験生が寝る時間も惜しんで、きつい受験勉強をするのは、自分の志望する大学に行きたいからであって、さらにその先には自分の行きたい職について、いい人生を送りたいからという、要求が存在する。

スポーツ選手が苦しいトレーニングを積むのは、試合に勝つため、学生・社会人が別に好きでもないのに英語を学ぶのは、それが仕事での給料に関係あるため、留学したいという気持ちがあるため。人は、目的(言い換えると、将来達成したいと思う要求)があるからこそ、やりたくないことでも、今頑張れる。今だけを考えて楽しく生きることは間違っているとはいわない。でも、やはり努力した人は、努力しなかって人に比べて、将来的に得るものは多いだろう。自分の人生は、自分が責任を引き受ける必要があるのだ。

 

そんななか、研究論文というのは、一体なんの役に立つのだろう。

先程あげた1の理由は、確かに将来的に承認要求を満たすという可能性があるものだが、それは別に研究でなくても味わえる。なんなら研究という時間がかかるものじゃあなくて、もっと手っ取り早く得られる手段があるだろうし、例え良い成果を出せれても、褒められるは、おそらく、一部の人に一瞬だけであって、自分を動かす大きな動機となるものではない。

 

2の理由は、とても冷めやすいものだ。すごい人のドキュメンタリーを見るとその瞬間はやる気が出る。意識の高いビジネス本は、読めば、「やっぱり努力が大事なんだ!成長するんだ!」と奮い立たせてくれる。

しかし、効果は持続しないのだ。頑張ろうと思う気持ちは、そのときは全身に溢れる。計画なんかも書いてみたりする。(そういう計画は、大抵、何週間後かに破棄される)そして計画を書き終わって、明日から頑張ろう!といい気持ちで布団に入る。そして次の日はまたいつもの自分、もしくは奇跡的に3,4日頑張りが続いたとしても、ふと、「なんでこんな頑張る必要があるのだろう…」とか思い初めて、また快楽に従う生活が始める。なぜこんなにも人の気分は冷めやすいのだろうか。それは、頑張るのが、ただ、影響を受けているだけであって、じゃあ、なぜ頑張る必要があるのか、頑張るとどんないいことがあるのか、その根拠となる部分については全く考えていないからである。

 

研究の大きな動機がこの2つでは、研究のモチベーションが上がるはずがない。

そもそも研究とは、自分の好きなことができる、楽しいものだ。

要求を満たすための"手段”ではないはずなのだ。"研究”それ自体が楽しくて然り。

自分の知的好奇心を追求していくものだと実感できれば、進んでいくはずだ、と考えた。それならば、まずやってみることが大事なのかも知れない。

今回はこの辺でSee You!